自分の親しか知らない子ども|「虐待」と「しつけ」の違い
子供への虐待事件が後を絶ちません。「お父さんにぼう力を受けています」と学校へ悲痛なSOSをあげながらも、その幼い子を死に至らせてしまった野田小四虐待事件は、記憶に新しいかと思います(2020年3月19日には懲役16年の判決が下される)。この事件に限らず、児童虐待による死亡数は年平均で約50件にまでのぼっています。
全国ニュースにならないために、私たちはその事実に気づきにくいのかもしれませんが、年50件ということは1週間に1人、子どもが虐待によって命を落としているということです。
平成30年度の児童相談所への相談件数は、15万件を超えており、相談にあがってこない水面下の児童虐待を含めるとこの数はさらに膨れ上がる可能性もあります。
最近は、新型コロナウイルス流行にともなう休校措置によって、普段より子どもと過ごす時間が増えた家庭も多いかと思います。これは嬉しいことである反面、家事の増大や食費増大による家計の圧迫、子どもの宿題の面倒をみるなど、ストレスも感じている親も多いのではないでしょうか?
ストレスやイライラを抱えている時、あなたは子どもにどう接していますか?
もしかしたら、子どもに強く当たってしまったことがあるかもしれません。時には、手を出してしまったこともあるかもしれません。
子どもに手をあげてしまった時「これは暴力じゃない。しつけだ」と自らに言い聞かせる親が多くいると言われています。
しつけだったら、子どもに手を出しても大丈夫なのでしょうか。
仮にそうであるとするならば、しつけと虐待の違いって何なのでしょうか。
これは明確な線引きが難しい問題ですが、ひとつの線引きになり得るのは、親が「しつけ」として子どもに手をあげたとしても、子どもがそれを「虐待」だと思ったならそれは虐待であるということです。要は、子ども側がどう思うかが重要であるということです。
ただ、そうは言っても問題は複雑です。
なぜなら、しつけであるのか虐待であるのかの判別を、子どもがするというのは難しいからです。子どもは、自らの親のことしか知らないので、自分の親=世間の親のスタンダードだと感じてしまうのです。複数の親に育てられていれば(現実的には考えにくいですが…)、「自分の親は、なんか違うぞ」と思えるのですが、自分の親しか知らないので(=比較対象がないので)虐待かしつけかの区別ができないのです。
極端な話、どれだけ日常的に暴力を受けていたとしても、それが「普通」だと子どもは思ってしまいかねないということです。
ただ、これ実は、親の方にも当てはめられます。
親も、他の家庭のことは分からないということです。
子どもの教育について、ママ同士で話す機会はあるかもしれませんが、そのママ友が具体的にどんな子育てをしているのかまでは知るよしもないでしょう。家庭の中の話はプライベート性が強いので、お互いに気を遣って深く入り込まないようにしているかと思います。こうして、他の家庭のことを知らないままでいると、自らの家庭の育児方法が間違っていることに気づきにくくなってしまいます。
また、相談相手がいないなかったり、貧困によって生活に余裕がなかったりすると、孤独感やストレスが増えてしまい、その結果として子どもにも当たってしまいやすいと考えられます。
つまり、虐待が起きてしまう原因は、必ずしも親自身の性質の問題ではないのです。本人の問題というより、外部要因が大きく影響していることの方が実は多いのです。より簡単に言えば、虐待とは、親のせいではなく社会のせいなのかもしれません。親を貧困におとしいれる社会、親をコミュニティから疎外させてしまう社会の方にも間接的に原因があります。
虐待する母親も、実は社会的に苦しい思いを強いられている被害者的な側面があるということです。事実、「全国児童相談所における家庭支援への取り組み状況調査」(2009)によると、虐待につながると思われる家庭・家族の状況として、「経済的な困難」33.6%、「不安定な就労」16.2%が上位2つを占めています。ということは、彼らに、健全な雇用機会を与えることで、虐待を大きく減らすことができる可能性があります。
子どもに手をあげてしまったとしても、必要以上に自分を責めることはしないでください。子どもに優しく丁寧に接するためには、まずは親である自分が健康的で元気で余裕のある生活ができること。意外にも、就職しただけ、転職しただけで、虐待が減ることもあったりします。
(参考文献:オレンジリボン運動 http://www.orangeribbon.jp/about/child/abuse.php )
「しつけのため」だからこそ手を出さない・強く怒らない方がいい?
奈良県のホームページでは比較的明確にしつけと虐待を違いを定義されていました。
それによると、
>「虐待」は大人が自分の感情にまかせて子どもを力でコントロールしようとすることです。
一方で、
>「しつけ」は、保護者が感情にまかせて子どもをコントロールすることではなく、子どもが自分で自分の感情や行動をコントロールできるように落ち着いて教えることです。
(出典:「どこまでが『しつけ』で、どこからが『虐待』??」 http://www.pref.nara.jp/45177.htm)
「しつけ」だと思ってつい子どもに手をあげてしまう親がいるかと思いますが、そうではなく、むしろ「しつけ」だからこそ「手をあげない」ということが大切であることを、上記の定義は教えてくれます。
これは、どういうことでしょうか。
手をあげたり、怒鳴ったりして、子どもに何かを言い聞かせようとすると、子どもは言うことを聞くようになるかもしれません。
例えば、食事のマナーを教える際に「なんでできないの」「ちゃんとしなさい」と怒鳴っていれば、子どもはちゃんとマナー通りに振る舞えるようになるかもしれません。
でも、子どもがそうやってマナーを守れるようになるのは、「親に怒られたくないから」です。マナーそのものを学んだからではありません。
こうなってくると子どもは、マナーの大事さを学んでいるのか、親に怒られない方法を学んでいるのかわからなくなってきます。
もちろん、「ダメなものはダメ」と機械的に教えたり叱ったりすることが、必要な場面(言葉が理解できない幼児期など)もあるかと思います。でも、その度が行き過ぎていくと、子どもは親の顔色ばかり伺うようになって、自分で物事の判断を下す力が養われなくなるでしょう。
こうなってしまえば、せっかくの「しつけ」が本末転倒になってしまいます。
しつけのためだからこそ、子どもに手をあげたり、怒鳴ることは賢明ではありません。恐怖で子どもをコントロールするのではなく、子どもが自らの人生を選択的に生きていけるように支援するのが「しつけ」ではないでしょうか。
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